残念ながら「なんとかか」ではありません。
情報教育に関する授業におけるディベートで、
某大学関係者が
「受け手(学習者)としてWord/Excel/PowerPointの使い方くらいはマスターしてきてほしいし、そういうのは教えてほしい」
に対し、某私立高等情報教諭は、以下のように答えた。
「最近は中学校の技術・家庭科で触ってきている生徒が高校に入ってきているので、使い方のレクチャーはあまりしない。たとえば、PowerPointを使うにしても、どういう風にプレゼンを行えばいいか、人に分かってもらう表現をするには…?人を納得させるプレゼンがいかに難しいか、などを体験させることが重要。かなり(教えるのは)難しいんですけどねぇ。」
教諭の意識にある種「ほっ」とする一方、
どうしても学習者としては、目的が優先される。
# まぁ当然のことですが…
MSOffice2007が出て説得力のでる話が
できるようになった気がします。
私はこういう場合、わかるように以下のように
言う事にしています。
Office2003->2007にVerUpしましたが、
見た目(UI)がものすごい変わっていますよね。
また1から教育を受けなおすんですか?
あるいはその機会がない場合は、使えないで済ます?
「Mark-II」から「CROWN」に乗り換えるときに
「CROWN」は乗ったことないからまた教習所通いますか?
家のTVのリモコンは使えるけど、
知人の家のTVのリモコンは教育うけてないから使えないの?
Mark-IIでもCROWNでも、
おそらくほとんどの人が運転できるでしょう。
リモコンも然り。
じゃぁなんでパソコンはできないん?
という話に持ってくわけです。
結局は、意識・視点の問題だと思うわけですよ。
彼らが好きな言い回し方だと「なんとかする態度」って奴でしょうか。
金太郎飴製造過程はどうか判断できませんが、
なんでも教えてもらえるって環境が、
もたらしてるような気が私はしてるんですけどねぇ。
その辺どうでしょうか…。
そういやエレン・ケイが的を得た事を言ってましたね。
教育の最大の秘訣は、教育しないことにある
いまいち論点がわからんくて、ちょっと話の筋とはちがうのだけど、
返信削除そこら辺のワープロソフト、表計算ソフト、プレゼンソフトが持ってる基本的な概念とかそういうのは情報科目ではやるのかな?
まぁまさしくソコなんですけどね。
返信削除教科の基準として、学習指導要領というのがあって、
児童生徒に対し、最低限みたしてほしい
【基準】が示されています。
んでここからは解釈によって異なってしまうわけです。
普通教科情報の目標には3つの大きな柱があります。
1.情報活用の実践力
2.情報の科学的な理解
3.情報社会に参画する態度
まさに2が質問の解答だと判断出来るでしょう。
但し「技術的に深追いしない」なんて制限がつきます。
外からなので取り急ぎ以上。
んで、現状を見ると、
返信削除某大学の情報系教員、また現場の人間と接すると
「技術」ってキーワードにすごい拒否感があると
体感しています。
もうね、いろいろ笑っちゃえますよ?
で、そこで落ち着く先は、
「技術ってどこからをいうの?知識との違いは???」
「科学的な理解ってなに?」
# まぁもちろんどちらがいいのかって話は別モノですが。
んで、論点の話ですが、
リモコンが使えるのは、
リモコンの概念(機能)を理解していて、
「電源スイッチを押せばTVがつく」ということを理解していて、
知らないリモコンを見ても、「電源スイッチ「を探すと処理を経て、
電源が入ると考えると、
パソコンでたとえばOffice2003をつかっていて、
初めてOffice2007を使ったとしても、
「Aという処理」について、「Aという処理をするためのメニューはどこにあるんだろう?ここかな?いやこっちかな?」という処理を経れば、
リモコンと同じでできるんでねーの?
-> じゃぁなんでそれが出来ないの?
-> そういった考え方をするような(教育)環境じゃなかったんでは?
-> んじゃ文科省の「確かな学力」「生きる力」とかってなんだろうね?
-> んで、このままでいいんですか?
-> こういう適応力とかって「生きる力」じゃないの?
-> こういうセンス・考え方がもてるような環境づくりって重要なんじゃねーの?
という展開。
# まぁ今回の私の採用試験の面接用のネタの1つだったりします。
# でもまぁ批判めいたことってNGくさいんですよね。
# まぁその辺は立ち回りと言い回しで回避ってとこで。
# 協調性ってやつらしいですが、
# 仲良く右にならえじゃ何も生まれないような気がしますけどね。
んで、エレン(児童中心主義)のいう「教育しないことにある」(児童の世紀)は、
# 私この本読んでないんでエレンの言いたいことは違うのかもしれませんが
# このセリフから私がうける印象としては以下の通り
教師が何も言わない(教育しない)ことによって、
児童に「主体的」に考えさせる。気付かせる。理解させる。
ってことがいいたいんでない?と思ってるので、
そういうのをやってかんと「確かな学力」「生きる力」とかって蓄積されるの?
というお話です。
教員免許状の到着、おめでとうございます。
返信削除教科名「技術」は古い時代のネーミングで、教科内容と乖離していますし、技術という言葉のニュアンスも変化しているので、違和感があるのは「まっとう」だと思います。スキルやテクニックという意味とは違う次元のネーミングですが、この看板は、これからも背負い続けることと思います。
yo-takaさんの問題意識は、知覚や認知、認識、転移という教育心理学や認知理論のテーマではないかなあと思います。「確かな学力」と言う場合に学力の中身がまず問われるべきなのですが、最終的には学業成績になって、評価や評定も含めた『教育』が問われるべきなんだろうなあ?と感じます。その辺りの意識は教育社会学的なアプローチが面白いと思うのですが教育心理学からのアプローチとして21世紀COEの基礎学力研究開発センターの10件のプロジェクトが参考になるのではないかと思います、昨年、構成要素型学力・学習力アセスメント」(Componential Assessment, COMPASS) を掘り下げて資料を集めましたが、教科や校種は違いますが、底流に流れる問題意識は同じではないかとひじょうに参考になりました。
yo-takaさん、技術、技能と言う言葉は、それ自体意味の広がりがありますし「テクニック」や「スキル」は指し示す意味がオーバラップしながら、また違ったニュアンスを持っていますし、technique、skillになると、ちょっと次元が違いながらも多くの意味を共有しているので、外延的に考えるても朧気ながら浮き彫りにされるかもしれませんね。対象が動作を伴う身体的なものなのか、認識的なものなのかによっても意味合いが違ってくることを考えると、概念としては幅広いように感じます。
返信削除yo-takaさんの文章を読んでいると、教科教育の範疇を超えて、もっと教育工学や教育心理学を究められると先達のいろいろな論に触れられるのではないかと思います。いただいたyo-takaさんのコメントを読むとヴィコツキーの最近接発達理論の問題意識なのかなあ?とも思います。「アカデミック徒弟制」や英語教育における「コア・イメージ」の概念も参考になるのではないかと思います。「1教えれば10ができる」という”1”が何なのか・・・、ユニークな答えはありませんが、でもベテランの教師の授業を見ていると「勘所」は押さえているように思います。
「教育はこうあるべきだ」式で、教育方法学的にアプローチするのか、受け手の生徒の理解をメインにして教育心理学的にアプローチするのか・・・、どちらも大切ですが、問題を切り分けることがスタートラインではないかなあ?と思うことが多くなりました。
”居酒屋で2時間も話せば分かってもらえる”というのはダイアログ・モードではなくてモノローグ・モードでの「頷き」や「同化」になってしまうのですが、教師は教育談義が好きなような気がします。でも解決策にはならないですし、意気投合で終わってしまうので、できれば10分程度でプレゼンテーションできる程度にご自分の意見を精緻化することも大切なように思います。
> itsumi氏
返信削除おはようございます。
早朝の出勤前のコメントありがとうございます。
> 「勘所」
まさしくその部分でしょうか。
むしろその部分が出来ないと、
教育を受ける側として私が教師を見た場合、
教師は不要かなと思っています。
# まぁとらえ方の違いなのでしょうけど。
# 教育を受ける側の背景にもよりますけど。
> 「居酒屋でうんぬんかんぬん」
たぶん全人類共通な話ですよね。
これは自分への皮肉だったりします。
頭でイメージしていることがうまく言語化できないというのは
はっきりと認識しておりますので…。
昔から(小学校はずっと国語3でしたorz)そうなので、
何かしら根本的な原因があるのだろうと思うのですが…。
完結に表現できるのが言いに決まっているのですが、
完結に表現しようとすると今度は「完結すぎてわからない」現象に…。
まさしく言語表現の「勘所」がわかっていないということでしょう。